「太陽の子」として、46億年前に地球が誕生。
その悠久の歴史を日曜日午前零時からの1週間にたとえると、
生命の芽生えが38億年前で同日の午後10時台、
バクテリアから進化に進化を繰り返して、
ようやく現在の動植物共通の祖先誕生が12億年前で何と金曜日の午前4時。
「いのちの母」ブナ出現は、1週間が終わる直前の土曜日午後11時50分台。
そして「知恵あるヒト」ホモ・サピエンスの歴史は、何と最後の1秒にしか満たない。
ブナ社会に育まれて地球上に生を広げてきたヒトは、
その母なる樹木を伐りつくし有限の地球環境を蝕んできた。
ヒトはこれから何処に行こうというのか。
「忘恩と反逆」のヒトとブナ受難の歴史。
環境年表をなぞりながら、その傷跡をとくと見つめてみたい。
ヒトとブナ社会の挽歌にならないためにも。
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今から500万年前、日本の本州あたりはジワジワと隆起が始まり陸地を広げていた。ブナ原生林で有名な青森県白神山地もその原型をあらわしていた。新生代第3紀といわれる哺乳類や被子植物が地球上に現れたころだ。化石人類といわれるホモ・エレクトス(直立原人)も150万年から200万年前には、遠くアフリカに誕生し進化を始めていた。
そのころの日本列島は火の国で溶岩が複雑な地形をかたどっていた。青森県の岩木山や八甲田山も火山活動が盛期をむかえていた。170万年前のことで、同じころ地球上に「いのちの母」ブナの祖先が生まれた。ときはちょうど氷河期にあたり、植物の南北移動が広い範囲で行われていた。気の遠くなるような年月をかけながら、地球上に張り付いたブナの祖先は、それぞれの地域に順応しながら進化をとげ、多くの種として分化していった。
世界のブナの分布は、北緯30度から60度の範囲で、冷温帯性で湿潤な気候帯に適応している。現在生存しているブナ属は11種知られているが、大きなグループでみると一つはヨーロッパに広く分布しているヨーロッパブナで、イギリスやスカンジナビア半島の南端を含めた、ほぼヨーロッパ全体をカバーしている。このことから「母なる樹」とも呼ばれ広く人々に親しまれ愛されている。隣り合わせるように黒海とカスピ海周辺にオリエントブナが分布し、これはヨーロッパブナが進化したものと考えられている。
中央アジアには点状のブナ分布圏があるが、はるか極東に寄った中国、韓国、台湾、日本には第2の大きな分布圏が形成された。ここでは7種のブナに分化して、日本に分布するブナ、イヌブナもそれに含まれる。
海で隔離されたアメリカにも広く発展したアメリカブナがある。北アメリカの東部に分布し、アメリカブナの特徴はヨーロッパや日本と違って純林を作らないことだ。この第3の分布圏では、ブナはカエデ類やコナラ属などの落葉樹と混じった森をつくる。ここから西南に離れてメキシコブナが分化したが、ブナ属のなかではもっとも南にかたよった、北緯20度から23度にかけてだ。ここは霧のかかりやすい山岳地帯で、冷温で湿潤といったブナ分布の特性をよくあらわしている。
世界のブナの属名にはラテン語でファガス(Fagus)と名付けられている。これはギリシャ語のphagein(食べる)という言葉に由来したもので、その果実が食用になることからそのように呼ばれた。ブナが属している上位のブナ科には、このほかクリとかコナラ、ミズナラなどの多くの落葉ナラ類やシラカシ、マテバシイといったやや温暖性の常緑カシ類も仲間になっている。いずれも動物が好んで食べるドングリが果実だ。このことは世界の冷温帯から温帯にかけてブナ社会という多様性にみちた生態系を育むことになり、ヒトも「いのちの母」として大きな恵みをうけることになる。

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2.ブナ列島、日本は縄文ビトのふるさと。 低地はクリ、コナラの二次林へ
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日本列島の気候には、ブナとイヌブナが最も適していることになるが、最終氷期の初めの10万年から7万年前には、京都周辺の盆地はスギやコウヤマキ、ヒノキなどが生えていて、それが地球規模で寒冷化した7万年から6万年前になるとツガとかトウヒ、マツ属など針葉樹林にかわり、その後になってブナ、コナラ属などといった冷温帯の落葉樹林に変わったという。日本のおおかたの地方も似たような経過をたどったものと考えられる。
さて、「智恵あるヒト」といわれるホモ・サピエンスは今から10万年前にアフリカに出現した。ブナが地球上に発生して、冷涼な気候に合わせて三つのブロックに勢力を張っていたころだ。ヒトという動物の1種は木の実や植物を食料としながら肉食も覚えていった。暑いアフリカからだんだん生活の智恵を編み出して生活圏を拡大し、ヨーロッパにも共同社会をつくっていった。狩猟、採集で生活の糧を得ながらブナの森は安心できる住みかでだった。ブナ社会に寄生して地球上の各地にさらに分散していった。
8000年前の中国では、ヒトはキビを栽培するなど農業を営む共同体をつくるようになった。ヒトの定住社会では家や暖房、調理用に木材の需要は増大していった。これが森林破壊の始まりだ。早くから発展をきわめたメソポタミア文明は、あたり一面の大規模な環境改変で、文明そのものが崩壊の憂き目にあった。
このころの日本ではどうだったか。白神山地は、8000年前に今日のブナ林が成立したといわれるが、低山地ではすでに縄文ビトの干渉が始まっていただろう。新潟での調査では、縄文人は縄文中期初めから後期初め(約4000年前)までブナ林を山焼きして、食料や建材として役立つクリ林を育成していたという調査結果がある。このような時期が1200年間つづき、また元のブナ林に戻ったという。何らかの原因で、ここの縄文社会に大きな危機が生じたのだろうか。
青森市の三内丸山ビトも、このころが栄華をきわめた時期だ。シンボルになっている直径1mもある巨大6本柱のクリの大木は、そんなに遠くから運ばれたものでないとすれば、やはり八甲田山麓にも伐採や山焼きなどでクリ林がつくられ、多くの縄文ビトの生活を支えていたに違いない。
目を岩木山周辺に転ずると山麓では鉄の製造が始まった痕跡がある。ヒトの生活には森の存在が欠かせないが、タタラで鉄や道具を作るには大量の燃料が必要になり、おのずと周辺の低いところはクリやコナラに変化し、もうちょっと高いところはミズナラなどに変わっていった。八甲田山周辺も例外ではなく、すでに縄文の時代には相当のブナ林が、このような二次林に置き換わったと考えられる。ヒト、すなわち我々の祖先たちは、現代人の反省あるいは戒めとしてよくいわれるように、森の循環をうまく利用した持続する活用方法を良くわきまえていた。きれいな空気、水、山の幸の恵み、さらに無駄なく建材や道具に使いながら独特な「木の文化」を生み出していた。それは少なくともこの後2000年近くにわたって、連綿と守ってきた日本ビトの生きるための智慧であり鉄則であったのだ。
この間、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、江戸時代へとヒトの歴史はゆっくりと流れていく。しかし奈良の法隆寺や各地の社寺や城の木造建築に象徴されるように、日本社会はあくまでも木の「匠(たくみ)」の文化だったのだ。奈良の大仏などは鋳造のため多くの燃料を必要としたが、それは厳しく規制されたなかで生み出されたものだった。

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洋々とした海で守られた島国の、冷温多雨な森の歴史は幸せであったというべきかも知れない。なぜなら目をアジア、ヨーロッパの大陸に向けると、そこでは森林の破壊の歴史が繰り返されていたからだ。
海という障壁がない広大な大陸では、各地域に勢力を張ったヒトの陣取り合戦が絶え間なく続いていた。今から4300年前の紀元前2300年。インダスや中国にいち早く隆盛をきわめた二つの文明は、極度に森林伐採を強めていた。階級社会は巨大な城や寺院などの建築物を生み出した。世界各地に生まれた巨大文明は互いに情報を交換していたわけではないだろが、きまって巨大ずくめの都市を生み出し、その代償としてまわりの自然環境が失われていったのだ。森林は建材として使われ、石やレンガは莫大な薪を燃やして大量に浪費されていった。武器の製造にも燃料としての木は欠かせない。このようにして森は消滅していった。
紀元前650年の地中海文明もまったく軌を同じくしている。この地方にはブナ、カシ、ナラ、マツなど落葉、常葉樹林が豊富に繁っていた。中国やインダスの文明に加えて、大量の船などの建造にも木材がつぎこまれた。農地の造成には一面が切り払われ、さらにヒツジ、ヤギ、ウシなどの過剰な放牧がこれらに輪をかけて土地の裸地化が進んだ。今日、海外旅行が一般化し、広漠とした異様な光景を地中海のイメージとして脳裏に刻み込むことになるが、その多くは先人の自然破壊のしるしだということを思い起こすべきだ。
内陸に入ってみよう。ヨーロッパブナを主体とした広大な森は、紀元前5000年以降の3000年間で大きな被害をこうむったという。特にヨーロッパの西や北部のブナ、ナラ、ニレ、シナノキなどの温帯性落葉樹林は、農耕の普及も加わって壊滅的な打撃を受けた。
ローマ帝国と中国・漢の最盛期の世界人口は2億人といわれる。今から2000年前の西暦が始まったとき、アジアとヨーロッパのユーラシア大陸では、その「知恵あるヒト」のすみかの殆どの森が、破壊され尽くされていたと見てよい。いまの人口からすればたったほんのわずかだが、その環境負荷の絶大であることを考えなければならない。
中国の北京から車で数時間のところに延々と続く万里の長城がある。さらに北京をはじめ各地の都市に造られた中国色ゆたかな歴史建造物群。そして2泊3泊と重ねながら、重慶から下る長江の船旅。断崖絶壁にへばり付いた枯山水のような奇岩絶壁の光景は、これが中国だという実感をもよおさせるに十分だが、そのルーツを探れば「中国4000年の自然破壊の歴史」にほかならない。あのドロドロとした長江の泥流から、多くの水源林までも蝕まれてしまったことが容易に想像がつくだろう。いま、この国は「一人っ子政策」とか「一人一年、苗木を三本」などと得意のスローガンを掲げて緑化に向かっているが、砂漠化した国土の復元は途方もなくむずかしい。さらに億単位の人口の急増と生活の近代化はそれに輪をかけて、大気汚染などのジレンマを生み出している。
ヨーロッパの都市、郊外、山岳風景には歴史の重みを感じさせる独特のものがあるが、海抜の高い山岳地帯を除いたおおかたは、中国の場合と同じ経過をたどったものとみるべきだ。具体例をあげると、西暦800年にはベルギーのブラバント地方では、木炭生産の中心だったことから、この地方の原生林の大部分を切り尽くしてしまったという。時代がくだって14世紀のころの状況をみると、あの10年間もかけて築城されたウィンザー城には4000本以上の良質のナラが使われたというし、当時の中規模住宅の建設には10本以上のナラが必要だった。この二つの例をヨーロッパ全体に当てはめてみると、その答えには充分だ。戦争による陣取り合戦が絶え間なかったことから、武器生産に要した木材量も甚大なものであった。

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森林破壊のこのような動きはこの後、西暦1900年中盤まで続くことになるが、とりあえずまとめて見る。
第一級の先進国のイギリスは、自然破壊においても王者の貫禄があった。この国はヒトがすみついてから、自然を切り崩していったが、20世紀に入ってもなおそれが続き、低地の開墾していなかった草地の95%、同じく低地のヒース地帯の60%、高地のヒース地帯の2分の1、低地の原生林と湿原の半分を破壊し尽くしたという。ジェームス・ワットの蒸気機関の発明が発端になって、紡績工場から始まった「産業革命」。さらに「機械化と集約化」によってヨーロッパの一人勝ちの経済の発展には目を見張るものがあった。しかし、「ロンドンのスモッグで3週間で2000人以上が死亡」(1880年)などといった環境悪化の記録は、飢えとは違った死の世界をもたらし、ヨーロッパの近代文明崩壊の危険性をもはらんでいたのだ。
イギリスなどのヨーロッパから、新天地を求めて北アメリカに移住したのは1750年のことだ。フロンティア精神に燃えてアメリカ東部から西部へのアッという間の開拓物語。アメリカの経済学者、H.C.エアリーは「地球は神の目的により人間に与えられた偉大な機械である」と断言(1848年)したが、このようにヨーロッパの教訓は生かされることなく、新天地でもヒトの環境破壊が大手をふるってまかり通ることになる。
その象徴的な例としてよく知られるリョコウバトの悲劇。このトリは、ヨーロッパ人がアメリカにやってきたとき約50億羽が住んでいたという。北アメリカの森林でアメリカブナ、シイ、トチなどの果実を餌にして大きな勢力を誇っていた。ところが1900年のヨーロッパビトがきてわずか150年後に、野生の最後のリョコウバトがオハイオ州で死に絶えたという記録が残っている。この国の、昔も今も変わらない開発のすごさがどのようなものであったかは、この一例からも容易に想像がつくだろう。
欧米でのできごとを早回ししてみると、チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表し科学的な自然観が登場(1859年)。アメリカで世界初の国立公園としてイェローストンを指定(1872年)。ドイツの芸術家、エルンスト・ルドルフが「自然保護」という言葉をつくる(1888年)、などなどと自然環境への理念がいやがおうでも高まっていくことになる。

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5.「水と森の国」日本。ブナ社会はゆっくりと二次林に変遷
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1600年、世界の人口は約5億5000万人。国をかたくとざしていた日本は、山も川も海も美しく清く澄んでいた。ときは藩政時代で、ヒトビトはそんなに豊かではないが、自然環境に溶け込んだ生活をしていた。殿様や大名たちの威厳さを誇示するかたちをみても、ヨーロッパの石やレンガや鉄を使った巨大さに比べれば木の文化にとどまり、森はことのほか大事にされていたようだ。
このころの青森県に目を転じると、ニホンオオカミは住んでいたし(最後の記録は1884年)、隣の岩手県では畜産奨励で大がかりなオオカミ駆除を行っていたというから、森林の奥深さは容易に想像がつく。記録には八甲田山には人喰い熊の被害が続出していたとある。近年、八甲田山の各地でツキノワグマの目撃が頻発しているが、これは上北郡とか岩木山などの生息地の環境改変から移動してきたのだろう。八甲田山は、ここ数十年前から非分布地とされてきたからだ。しかし、ブナ林がまだ密な時代には、ここは豊かな彼らの住みかだったのだ。
1700年の大雨のとき、「八甲田山から青森湾に流れ込む堤川には洪水で6万本の流木があふれた。」という記録がある。当時、ブナは薪にしかならない最も低級な樹木とみなされ、人里に近いところからどんどん伐りだされていたのだ。これはずっと下って1950年代まで続けられ、秋になると家々や学校では業者から買った丸太を割っては、冬に備えたものだ。津軽藩の林政は、「ヒバ、スギ、マツ、カツラなどは重要樹種に指定され伐採は禁止」(1712年)だったが、ブナはこの限りにあらずで燃料にされていた。伐採された跡地には標高の高いところからミズナラ、コナラ、クリといった樹種が自然の状態で更新され、二次林として深山を取り囲むように形成されていった。二次林は重要な薪炭補給林であり、十数年おきに順々に伐られては、根元から芽を吹き出した小木が、やがて十数年後には薪炭に利用できりるで生長するといった、重宝な循環利用だった。

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「水と森の国」の日本は藩政時代から明治に変わり、森の多くは「官林規則」(1871年)によって活用されることになった。藩政時代から森林の伐採には強い規制があったが、あらためて乱伐を禁止し、木材となる樹木の育成に重点をおくことになった。その樹種というのは、相変わらずスギ、マツ、ヒノキ、カシ、クリ、ケヤキなどで、ブナはそれに含まれていなかった。ブナは依然として低級な木に過ぎない。時代は20年ほど下るが、1893年(明治26)の樹種別の石当たり木材単価は、ヒバが最高で67銭、この後にアカマツ44銭、スギ41銭3厘と続く。ブナはどうかというと9銭5厘に過ぎない(青森営林局管内。当時は青森大林区署)。参考までにコメの石当たり値段はランクがあるが5円05銭から6円06銭となっている。
ブナ伐採について明治時代の記録からいくつかをあげると、市町村制の実施で公有林が町村有林と部落有林に分かれる(1890年)とか、薪炭林の払下げ申請(1878年)、長野県新田村にカラマツ植林(1874年)、岩手県が県営茨島牧場(アメリカ式種牛)・外山牧場(イギリス式種馬)を設置(1876年)、青森県法奥沢に共同牧場設置のため焼山の官有地を借り受ける(1890年)、ブナ材を航空機用材にするために各所に林道を延長(1883年)、などが見られる。
ブナ材が航空機用材というのが唯一、名指しで活用されただけで、もっぱら伐られては燃料に向けられた。跡地は二次林になったり牧場や草地になったり、そして一部にはスギ、カラマツなどが植林されたことが分かる。当時の国の林政は、「ブナは薪炭材利用が主体で、立地条件が良好な場所は皆伐でスギ、カラマツなどに樹種を更改する。奥地のブナ林は経済林の対象外で土砂防止、水源涵養など国土保安の要素をになう。」
大正時代。世界の人口は約17億人、日本は5291万1800人。神代の時代から木の文化を最高のものとしてきた日本ビトは、かつてのインダスや中国の古代文明崩壊の轍は踏まなかったものの、森林に与えるストレスはさらに強まっていった。近代化をになう資源の消費は高まるばかりで、森林の伐採は奥地へ奥地へと深まっていった。エネルギー源だけでなく、皆伐しては放牧地にして食料増産などに当てられた。青森県に限ってみても岩木山麓枯木平に「農牧社」を開設(1881年)とか南八甲田山に黄瀬牧場を開く(1901年)などと、原生林は広範囲に改変されていった。
このあと昭和初期までのブナ林は、それぞれの地域の生態環境と林分構成に対応した施業をめざした。青森営林局管内を見るとブナ林についてさまざまな調査がはじまった(1931年)。その中心的な役割をはたした渡辺福寿は「ぶな林の研究」を発表。東北帝国大学理学部は八甲田山酸ヶ湯に高山植物実験所を設置して(1928年)、生物学者はここを拠点に植物生態学の基礎研究を行い学界に発表した。同所発行の学術雑誌「生態学研究」にはその成果として「八甲田山の山岳林、ブナ群叢」(吉岡邦二)をはじめとして多くの業績が蓄積されていった。
欧米に遅れること半世紀、1919年には日本でも「自然保護法」が制定。その後「国立公園法」が公布され(1936年)、青森・秋田県にまたがる十和田湖・八甲田山が国立公園に指定された。国の山林局は青森営林局に本格的なブナ林調査を指示し、「ブナ林施業基礎調査報告書」のとりまとめまで行われたが(1938年)、やがて第二次世界大戦に突入し総合試験までいかなかった。この国の歴史のなかで初めて正当な評価を得たブナは、その真価をさらに高めようとした矢先の林政の頓挫だった。

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「智恵あるヒト」は何故そんなに急ぐのか。日本は高度経済成長の真っ只中にあり、いわゆる先進国といわれる国は未開発国の資源を略奪しようと、地球上を跋扈しはじめた。米ソは勢いにのって宇宙までアクションを起こした。ボストーク1号に乗って初めて宇宙から地球を眺めたユーリ・A・ガガーリンは、「地球は青かった」と名セリフを残したが、しかしこのとき、地球上のあちこちからは公害に蝕まれたヒトビトの悲鳴が聞こえていた。レイチェル・カーソンは大量農薬使用による環境汚染を「沈黙の春」(1962年)で告発。無垢だった地球に毒物が散乱し広まっていった。
ヨーロッパで始まった産業革命は、その後二つの世界大戦をはさんでエネルギー革命へと進んだ。燃料は木材から石炭に変わった。日本の場合1880年の100万トンから1920年代には3400万トン。これからおよそ60年後(1980年)の世界をみると、エネルギーの構成比は石油40%、石炭33%、天然ガス18%、木材4%、水力2%、その他2%という変わり様だ。この時点では、原子力発電は始まったばかりだった。
日本では、池田勇人首相の所得倍増論はやがて高度経済成長時代に突入。家庭電化と車社会は便利さと公害の歴史を生み出した。さらに下って田中角栄首相は「日本列島改造論」を携えて登場し、「日本列島37万平方キロを合理的に使おう。」と、かつて100年ちょっと前にアメリカの経済学者、H.C.エアリーが断言した「地球は神の目的により人間の与えられた偉大な機械である。」の発想が、この狭い列島に持ち出されたのだ。
日本ビトのおおかたは、嬉々としてこの物質文明、消費社会にとりこまれていった。ジャルパック、セット旅行、レジャーブーム、一億人総白痴化。かつて大阪万博で「2時間待ち、3時間待ち」を最高のものを見たあかしとして自慢したというが、この国のヒトは群衆をなして怒濤のように国内外にあふれだしていった。都市部は光化学スモッグにおかされ、山や森は観光道路に有料道路にと。近代化を欧米に学んだ日本ビトは、目先の欲望に目がくらみ、その負の教訓とかを生かすことができなかったのだ。
1972年、アムステルダムで初の地球サミットが開かれた。そのテーマは「かけがえのない地球、オンリー・ワン・アース」だった。この前年に政府は環境庁を新設し、初代長官に大石武一を任命した。この時の大石・環境庁の滑り出しは、すこぶる切れ味が良かった。三重県知事が、問題化していた大杉谷(吉野熊野国立公園)に建設を計画していたダム構想を放棄。環境庁はここに隣接する社有林700haを買い上げたのだ。しかしこの後、各省庁のはざまで環境庁の劣勢はぬぐうべくもなかった。
「世界環境戦争」の始まりだ。グリーンピース(カナダ)など環境保護団体が誕生し身を挺した行動が世界各地に報じられた。日本では全国自然保護連合が、各地に雨後の竹の子のようにできた保護団体を併合。このころ四国で工事が始まっていた石鎚山スカイライン建設で愛媛県知事を告発。これは、日本の自然破壊告発の第1号となった。自然保護連合は「自然破壊黒書〜自然は泣いている」で国民に問いかけ、第2弾「終わりなき闘い」で自然破壊の実態を次々と告発していった。ドイツの芸術家、エルンスト・ルドルフが提唱した「自然保護」という言葉。自然に保護されてきたヒトが、自然を保護するとは何ともおこがましいことだが、地球上で繰り広げられた狂気に満ちた蛮行に対する偉大なメッセージととらえるべきだろう。
地球サミットが開かれた年に、ユネスコで世界文化遺産と自然遺産の保護に関する条約が採択された。考えて見れば、これもおかしな組み合わせだ。世界の自然を破壊しつくした歴史のしるしが文化遺産で、その消えかかる直前の姿が自然遺産だとは漫画チックに思える。ただ文明による自然破壊にストップをかけた意義は大きい。ここでも日本は遅れて20年後の条約批准だった。

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2度にわたる世界大戦で日本の国土・山河は疲弊し、それを取り戻そうと全国緑化運動が始まった。1950年、甲府で第1回目の植樹行事と国土緑化大会を開催。この植樹祭は日本各地をめぐり、青森県では第14回(1963年)を、天皇、皇后両陛下が臨席で東津軽郡平内町夜越山で開いた。テーマは「粗放林野の拡大造成と生産力増強に基づく住民所得の向上」で、このあと全県に緑化思想が高まっていった。
国有林の主体であるブナ林については、戦後間もない時期は「従来の皆伐天然更新と積極的な皆伐樹種更新で、標高・地形から皆伐に適さないところは択伐する。」として進められた。土木・伐採機械の進歩で林道は奥地へ高地へと進み、合板やパルプの需要から大規模な伐採は目を覆うばかりだった。皆伐樹種更新という施業では、更新されるのはスギだった。スギは海抜600m〜700m地帯までの植林が可能だという試験結果から、1970年代後半からは上へ上へと良質なブナ林を蝕んでいった。国立公園としてその自然景観が世界的に知られる十和田、八甲田、八幡平にしても鬱蒼としたブナ原生林は、観光道路からせいぜい数キロに残されたにすぎない。航空写真でながめると麓に近いところは黒々と生長した人工の針葉樹林で、標高が高くなるにしたがって碁盤状に伐採跡地が連なって見えた。ここでは機械力を武器に合理的なスギ植林がなされていったが、やがて安価な外材と国産材の格差から林野行政がうまく機能しなくなり、植林後数年間の保育作業もままならなくなった。厚い雪に倒されたままのスギ苗や、間引きもしないでやせ細り主軸の折れたスギ林、さらには下刈りもしないで放置された植林地などと、その惨状は目に余るものがあった。
国有林がもつ国土保全機能よりも、木材生産という経済を優先してきた林野行政の破綻がついにおとずれた。将来を見る目を失った林野行政に対して、守る運動がメラメラと燃え広がったのだ。
山形県朝日連峰のブナ林を守る会が発足(1971年)。根深誠の「みちのく源流行」を手始めに、白神とブナをキーワードにした出版が相次ぐ(1980年〜)。白神山地を分断して、青森県西目屋と秋田県八森町をつなぐ「青秋林道」が着工。開通すれば自然が失われるとして自然保護運動に拍車がかかる(1982年)。
世論の反発と行政の反省から、ブナに対する方針は「拡大造林は、厳しい自然条件下では期待した生育が見込めない。国有林でなければなし得ないブナの良質な大径材をめざそう。積極的な天然更新をはかる」。この一大転換は、1980年代のなかばのことだ。
第二次世界大戦で中断していた、ブナ林に関する調査研究も再開された。林業の試験研究機関はもとより、大学の基礎から応用研究の分野まで多くの業績が蓄積されていった。たとえば大正年代からブナ林に大発生するブナアオシャチホコの害虫が知られていた。この幼虫は周期的に発生して何百、何千ヘクタールにわたって落葉したような状態にしてしまうが、これはどのようなメカニズムによるのものか。さらには、ブナの果実の豊作、凶作は歴然としていて、ブナヒメシンクイという果実を食害する昆虫の発生量と密接に関わっている、などなど。いずれにしても、ブナ林は土壌の中から地表、大気までの大きな生態系のなかで、複雑な食物連鎖を通して適度なバランスが保たれていることが分かった。言い換えれば、よもやヘリコプターで空中から農薬散布をして駆除などはしてはならないということだ。ブナ林をはじめ森林の国土保全機能とか水源の涵養機能などの研究も着々と進んだ。ブナ二次林の試験研究も伐採地の復元に役立つことであった。多くの調査研究が物語っていることは、原生林あるいは自然林がもつ複雑な生態系の仕組みのみごとな調和で、ヒトを寄せ付けない深淵で神々しくさえ思える大自然の営みだった。
さらにここにきてブナ林の存在そのものに関わる悲観的な予測が、より具体的に指摘されてきたことだ。1988年に環境庁が、「今からすぐエネルギーの利用形態を変えれば、恐るべき事態を50年遅らせることができる。」としたが、最近の分析では100年後には全国のブナ林の40%がコナラ林にとって変わるというのだ。年平均気温が約6℃あがることによってさまざまな気象要素に変化をもたらし、冷温帯性で湿潤な気候に適応してきたブナは、ヒトの文明がもたらした温暖化の影響をもろに受けるのだ。日本列島の中で近畿以西から四国、九州のブナは全滅し、中部の日本アルプスから奥羽山脈にかけての日本海寄りの高地にだけ不連続な点状のブナ林が残る。現在は道南が北限になっているが、それが北海道の北西部まで伸びていく。このような分析結果は信じたくないが、地史が示した過去の事実と、いまヒトがもたらした大気破壊を考え合わせると、ブナは上へ上へ、そして北へ北へと減少しながら移動していくという推測には説得力がある。

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昭和の終わりから平成にかけて、ブナや森をめぐる動きはあわただしかった。日本ビトのこころのなかに、飽食の時代から何かをめざそうという芽生えが始まっていたのだ。
大山に「1木1石運動」が始まる(1985年)。初のブナ・シンポジウムが秋田市で開催、ここ10年間で東京都の面積の約2倍(44万ha)が減少したという現状報告(1985年)。環境庁が環境に役立つ商品にエコマーク(1988年)。岩手県室根山で「森は海の恋人植樹祭」が始まる。森の民と海の民が手を携えて室根山に広葉樹を植えよう(1989年)。「青秋林道」の工事が中止、青森県西目屋村でジャパン・ブナ・フェスティバルが始まる、10年間で約3万本のブナを植えよう(1990年)。世界自然遺産に白神山地と屋久島が決まる。白神には世界最大のブナ林が残るがその理由(1993年)。
ブナについてテレビ放送や新聞が盛んに書き、はやしたてた。マスコミは市民や国民の運動や活動をそのまま伝えるのではなく、放送作家や記者のブナ礼賛番組や特集記事がブラウン管、紙面に踊ったのだ。それまでひっそりと山仕事に生きてきた古老やマタギたちは、引っ張りだこでインタビューを受け講演会に登場。タレント扱いにされた彼らの体験談は貴重で、自然観を一般市民に語りかけるのは素晴らしいことだ。ところがマスコミはそれを脚色、誇張し、さらにはえせ学者が肉付けをするにいたっては、もはややらせの世界になりさがってしまった。
「ブナは自然の王様、水をいっぱい蓄える緑のダムの主役。」かつて明治のころまではヒバが最上の木とされ、ブナは値段にして8分の1。薪ぐらいにしか、その価値を認めてもらいなかったのにだ。そして今や鬱蒼とした原生林にしか住めないクマゲラとともに、タレントにのし上がってしまったのだ。このようにして170万年前に地球の大地に根を張ったブナは、日本ではそのほとんどの年月で役立たずとさげすまれ、最後に「ブナ信仰」、「ブナ神話」の立役者になったのだ。ここまでくれば同じブナ科で親戚筋のミズナラやコナラは顔色がない。スギとかマツもお呼びでない。ブナこそが最上のもので自然環境を豊かにするという「ブナ至上主義」が、またたく間に全国に広がっていった。ヨーロッパでは、昔からヨーロッパナラをオーク・キング(oak king)と呼び、ヨーロッパブナをビーチ・クィーン(beech queen)と親しまれてきたというのに、この国、日本の場合は大違いだ。

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10.青森の水源地にミズナラを伐ってブナを植える?
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日本列島の本島、本州の北の端に青森県がある。その名前がしめすように中央に八甲田山連峰があり、西側に岩木山、そして秋田県との境にかの有名な白神山地がつらなる青い森の国だ。ここは遠く縄文の時代から栄えた土地で、東から八戸市の是川遺跡、八甲田山の西麓に三内丸山遺跡、そして西の津軽地方には亀岡遺跡などが往時の繁栄ぶりを詳しく物語っている。
三内丸山がある青森市は、水がめを八甲田山から流れる横内川に求め、おいしい水と評判が高かった。
八甲田山から流れる青森の水が、厚生省の「おいしい水研究会」で日本一の評価(1984年)。青森市は浄水場がある横内川の集水域にブナ植樹を開始。民間団体からの寄付とボランティアによる年中行事となる(1992年)。37ヘクタールに14万本のブナ植樹を達成。長期計画として2004年以降も進める予定(2003年)。
ここは海抜360m前後のところで、遠い時代には川筋を除いてブナ林が優勢であった。ただ早い時期からヒトの干渉で二次林になりミズナラやヤマザクラ、ところによってはアカマツが優勢の林に変わっていった。これは植物の遷移による自然の成り行きだ。近年になって一部が伐採され灌木化したといわれるが、そこはやがて間違いなく水源涵養機能をもった二次林になる場所だ。ところが行政は、ここに成木になったミズナラまで伐採してブナを植林し始めたのだ。市民の環境保全への理解を深めてもらおうという構想は大きな共感を呼んだが、現状の植生環境にそむいてヒトの手でブナの自然林を復元できるものと考えたのだ。このことについてブナ植樹の主宰者は、ブナは最大の保水力をもつという「ブナ至上主義」をその根拠として語った。新聞に載った、山に生きてきた古老の「ブナ木一本、水一石」という故事もヒントになったという。
ブナ林を主体とした森林生態学は、すでに紹介したように急速に進展した。しかし、それらの業績、結果、分析に目を通すこともなく、また専門家の指導を得ることもせずに、いま全国各地で適地適木という考えを無視した、「ブナ植樹」という大きな過ちが輪を広げて進んでいる。都市公園や街路樹の並木をつくるような単純な発想で、無駄な金と労力がつぎこまれているのだ。

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地球上の二つの大陸、三つの地域に進化して発展したブナ社会。これらの地域の気象はヒトの思考にもっとも適し「知恵あるヒト」を育んだ。ヒトはブナ社会の進化と分布拡大を後追いするように快適な生活環境に恵まれながら、こんにちの文化を築いたとしても言い過ぎではないだろう。そのブナ社会がいま急激に、この地球上から消えようとしている。ブナ社会の約170万年の歴史がそれを如実に物語っている。かつての繁栄ぶりに比べれば取るに足らない原生林だが、白神山地という地域を世界遺産として評価したことはその証明であり、ここが地球上のかすかな思い出になりつつあるのだ。
地球の歴史はこのあと、どのように年輪を積み重ねていくかは神のみぞ知るとしかいいようがない。そのなかでブナ社会とヒト社会を少しでも長く生きながらえさせようとする処方箋は、ヒトの文明が引き起こした地球の温暖化現象をいかにくい止めるかではないだろうか。それ以外に、どのような手が残されているのだろう。
「ブナは山へ還る」。いや安住の地に返そう。ブナ社会が滅びるときはヒトも今の状態でいられるという保障はないのだ。このヒトが繰り広げてきた、ブナに対する「忘恩と反逆」の壮大な歴史。世界のヒト全体が、この歴史の教訓を生かすときがきたのだ。
「馬鹿なヒト」とか「愚かなヒト」という意味のラテン語の言葉が、ホモ・サピエンスの「サピエンス」に置き換えられないためにも。
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(萩野 裕二、2004年2月29日)

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引用・参考文献
八甲田山植物実験所(1935〜1945)生態学研究。各巻、東北大学。
青森営林局(1951)六十五年の歩み。青森営林局。
青森営林局(1952)六十五年の回顧。青森営林局。
青森市公営企業局水道部(1959)風雪五十年。青森市公営企業局水道部。
品川弥千江(1968)岩木山。東奥日報。
青森市水道部(1969)青森市水道60年史。青森市水道部。
宮城一男(1972)日本列島と青森県。東奥日報社。
藤田至則(1973)日本列島の成立。築地書館。
青森営林局(1973)ブナ天然林施業法の解説。青森営林局。
青森県(1973)青森県近代史年表。青森県。
青森銀行(1979)あすなろ百年。青森銀行。
青森県企画部(1982)青森県企画史〜三十五年のあゆみ。青森県企画部。
樹齢百年編集委員会(1986)樹齢百年〜青森営林局の一世紀。林野弘済会青森支部。
宮脇 昭(1987)日本植生誌〜東北。至文堂。
青森県立郷土館(1991)赤石川流域の自然。青森県立郷土館。
青森県(1987)白神山地自然環境調査報告書。青森県。
クライブ・ポンティング(1994)緑の世界史(上)。朝日新聞社。
クライブ・ポンティング(1994)緑の世界史(下)。朝日新聞社。
青森県立郷土館(1995)白神山地の自然。青森県立郷土館。
青森県立郷土館(1996)白神山地の自然〜笹内川流域・十二湖周辺。青森県立郷土館。
岩淵 功(1999)八甲田山の変遷〜史料で探る山と人の歴史。「八甲田山の変遷」出版実行委員会。
自由国民社(1998)20世紀事典。自由国民社。
青森県環境生活部自然保護課(2000)青森県の希少な野生生物。青森県。
下川耿史(2004)環境史年表〜昭和・平成編。河出書房新社。
下川耿史(2004)環境史年表〜明治・大正編。河出書房新社。
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